何度降りてもいい、また乗ればいいのだから
一度出会ったら、人は人をうしなわない。
たとえばあのひとと一緒にいることはできなくても、あのひとがここにいたらと想像することはできる。あのひとがいたら何と言うか、あのひとがいたらどうするか。それだけで私はずいぶんたすけられてきた。それだけで私は勇気がわいて、ひとりでそれをすることができた。
東京を離れてもうすぐ十二年になる。いつか母にいわれたように、こんなことは「正気の沙汰ではない」のかもしれない。でもともかく、私も草子も元気で、毎年一つずつ年をとり、仕事をしたり眠ったり水泳大会にでたりしながら暮らしている。
十二年間東京の誰にも連絡していない。桃井先生は勿論、何人かの友人にも、父にも母にも従妹たちにも。
連絡を完全に断つことなんて、存外簡単なことだった。いないつもりになればいいのだ。はじめからいないつもり、帰る場所などないつもり。そう錯覚しない限り、とても二人でやっていけない。・・・
昔、あたしのママは骨ごと溶けるような恋をした。骨ごと溶けるような恋、というのがどういうものであるにせよ、その結果あたしが生まれたのだ。
−あなたにもいつかああいうことが起こったら素敵ね。
ママはあたし何度かそう言った。でもそのたびに、いかにもすまなさそうに、
−おんなじことは起こるはずがないけれど、まあ、それに類することがね。
と言いなおすのだった。
あたしは爪みがきをしまい、自分の両手を満足して眺める。爪は一つずつ全部つややかで、さわると気持ちよくすべすべ。
−おんなじことは起こらないの?
あたしが訊くと、ママはこたえる。
−そりゃあ、あなたのパパみたいなひとは世界中にただ一人だもの。
うっとりした声で、でも実にきっぱりと。あたしはときどき思うのだけれど、ママはイカレている。パパに関して、あの人は完全にイカレている。
- 江國香織 <神様のボート>より一部抜粋
友人が、ボートを降りる決心をした。
そのボートをおりることになるだろうという事に気付いて、
ボートをおりる決心をしてから、
そうして完全におりるまで、
・・・
その一連の動きは、乗っている時よりもツライものだった。そう、それは 乗っていることだってツラかった。
ほとんど全ての人が、そのボートに乗るのだろう。乗っているのだろう。乗っていたのだろう。
「航海士」のいないボートほど、不安なものはない。
でも私たちは、そのボートがいつしか「幸せ」という島まで自分を運んでくれると信じている。信じていた。
何にも触れられず、何を信じてよいのか分からないときも、
きっとそのボートが自分を運んでいってくれると信じている。信じていた。
たとえ「航海士」がいなくても。見えなくても。
しかしその「航海士」が「自分自身」であることに気づいている人は、もうたくさんいるのかもしれない。
降りた島が、目的地と違っていても、それはきっと「人生のシナリオ」どおり。
「航海士」は神様が作った「シナリオ」を、ただひたすらつき進んでいるだけ。神様の存在に気づかずに。シンプルに。
また、彼女はこう言う。
あのボートは 色々な苦痛で揺らされていたけれど、
乗っていられたこと、 ボートから見た景色。 感じた外気の温度。
そういうの、すごく愛おしい。
愛おしいと思う、今のこの自分をなんだか哀しくも思う。
彼女が放つ言葉たちは、いつも温かくて、色がある。 それはきっと、そのボートに乗ったからなんだとわたしは思う。
難航、おつかれさまでした。
あなたに訪れる次のボートも、素晴らしいものでありますように。